「1976年のアントニオ猪木」やらざるを得なかったリアルファイトを経験した凄み

いつからだろうか?
プロレスに興味が無くなったのは。

nWoブームはわりと冷静に見ていたが、その後小川や大仁田が新日本プロレスのリングに上がり、PRIDEで桜庭がホイスグレイシーを撃破。そして年末の格闘技興行戦争に熱狂。

その頃、並行して1970〜1980年代のプロレス・空手関連に異常にハマり、古本屋とレンタルビデオとサムライチャンネルで情報を吸収しまくった。そのおかげもあり、リアルタイムではないが昭和の新日本、とりわけアントニオ猪木という人の過剰な部分というのはしっかり頭に入っている。

プロレスの魅力は「デタラメさ」「いかがわしさ」だと思う。
(いかがわしいのを魅力だと言ったのは天龍だったかな)

そういった意味では、1970年代の猪木&新日本プロレスというのは魅力だらけであり、ここ最近色々と昔の映像を見ている流れでこの本を手に取った。

「1976年のアントニオ猪木」
私が生まれる前の、1976年という年にクローズアップしたこの本。

発売された当時は話題になっていたが、その時にはプロレス関係に興味が失せていたので読んでいなかった。ここ最近再び気になったこともあり、紙の本は買わないことにしているので、Kindle版を購入した。

事実を淡々と書き連ねた書籍

なぜ1976年に焦点を当てているのか?
この年に、異常な4試合を行なっているからである。

ウイリアム・ルスカ戦。
モハメッド・アリ戦。
パク・ソンナン戦。
アクラム・ペールワン戦。

アリ戦とペールワン戦が同じ年に行われていたとは!

異種格闘技戦、当時のタイトルで「格闘技世界一決定戦」として行われたが、ルスカ戦以外の3試合は、リアルファイトであるという。

「プロレス=あらかじめ勝敗の決まったもの」
というのをハッキリと打ち出した上で、伝説めいた逸話も残されつつ曖昧だった事実を、いろんな取材によって浮かび上がらせていくノンフィクション作品。

強くてカッコ良いだけではない。
自分勝手でズルくて気分屋で、狂気じみた部分も全て含めて猪木

そんな内側を明かされることで幻滅するどころか、「猪木すごい!昭和の新日すごい!」と改めて感じることができたのは、例のミスター高橋本を読んだ時と同じだった。
しかし最大の違いは、猪木への思い入れの有無だと思う。

プロレスの内幕を暴露しつつも「猪木が好きなんだろうなあ」と感じさせてくれたミスター高橋と違い、本作の著者である柳澤健氏は、事実(だという内容)を淡々と冷静に書き連ねており、感傷的になったり伝説チックな表現もない。猪木自体に思い入れがないのか、あえてそうしているのか?

唯一気になったのは、背景の説明が非常に長いところだろうか。
その試合を立体的に見るには必要な情報なのかもしれないが、周辺情報のあぶり出しが非常に冗長に感じたというのはあるかな。

リアルファイトの3試合とは

猪木の異種格闘技戦やその近辺の出来事については、いろんな形で当時の情報を収集していたが、私が思っていたのと食い違う点や新事実も浮かび上がってきたので興味深く読めた。

特にアリ戦については、さまざまな場所で語られている。
その中でも、エキシビジョンのつもりで来日したアリに対しあくまでリアルファイトで押し通したという部分。

私の認識としては、当初はプロレスをするつもりだったのが話がこじれたと思っていたのだが…ボクサー相手に最初からリアルファイトのつもりだったとは考えにくいと思ったのだが、どうなのだろう?

パク・ソンナン戦については私もあまり深掘りしていなかったので勉強になった。2試合で負け・勝ちの予定だったが1試合目の負けを猪木が拒んだという話が、実に猪木らしい。
そもそも2試合目に日本のTV中継が入るから負けを拒んだのに、結局1試合目も負けを拒んで話がこじれてしまい、結果的に結末が決まらぬままリングに上がったというのが痺れる。

ペールワン戦は、プロレスをするつもりで行ったらリアルファイトをやらされたと。最後まで交渉したけど聞く耳を持ってもらえず、仕方なくリングに上がって相手をボコボコにした後、控え室に戻って「何でこんな試合をやらせるんだ!」と激昂したという。

プロレスのリングで行われるリアルファイト

自ら望んでリアルファイトを行ったのではなく、話の行き違いで結果的にやらざるを得なかったという点。

その後、総合格闘技のシンボル的な扱いでPRIDE等に登場していた猪木だが、総合格闘技のリングに上がったレスラーと猪木の最大の違いはそこだと思う。

どっちがいいとか悪いとかではない。

きちんと厳密に設定されたルールの元で、格闘技を見る目を持った観客の前で競技として行う総合格闘技ももちろん素晴らしく、我々も熱狂した。

そして猪木。
特にパク・ソンナン戦とペールワン戦。
情報の発達した現代とは異なる1976年に、韓国とパキスタンという敵地(完全アウェイ)に乗り込み、TV中継も無く、プロレスをするつもりが話がこじれて結果的にリアルファイトとなってしまうという流れ。

総合格闘技のようなルールもなく、あくまでプロレスのルール(=あって無いようなもの)だからこそ、命がけの戦いとなってしまう。

相手の目に指を入れるというのは、それだけの状況だったということだ。
この恐ろしさは、総合格闘技とは全く異なるものである。

そしてアリ戦がもし、本書にあるような「猪木は最初からリアルファイトのつもりだった」のだとしたら、ヴァーリトゥードという概念もない時代に、観客も実況も解説者も記者も誰もが、それを理解する能力も語る言葉も持っていなかった中で、ボクサーとプロレスラーはどっちが強いか?という、冷静に考えれば考えるほどよくわからないけど何だかすごいスケールの戦いに身を置くということの恐ろしさ。
(個人的には未だに、アリ戦もプロレスのつもりだったけど話がこじれたんじゃないの?と思っているのだけど)

間違いなく言えるのは、ルールの整備された総合格闘技のリングでやるリアルファイトより、プロレスのリングでやるリアルファイトの方が怖いだろう。

「結果的にやらざるを得なかったリアルファイト」

その経験が2試合(3試合?)あるというだけで、アントニオ猪木というのは他のレスラーとは一線を画す存在なのだ。変に猪木偏重にならず、淡々と事実を炙り出した文章だからこそ、時代背景も踏まえたアントニオ猪木の凄みを痛いほど感じることができた、名著!

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