村上和成のヒリヒリ感とキナ臭さ。格闘技とプロレス。競技とイベント。

2015年大晦日のテレビは、久々の「格闘技祭り」でした。10年位前は年末に各局格闘技関連のコンテンツ目白押しで大晦日の興行戦争なんて言われていましたが、今後再び新たな大晦日のコンテンツとして格闘技が復活していくのでしょうか。

また、この動きとは全く別のところで、プロレスブーム(というより新日本プロレスブーム)と言われています。プ女子なんていう人たちも出てきており、男らしさと華やかさによりアイドル的な人気で、一時期の不況から抜け出したようです

この2つの事象を見ると、プロレスと格闘技でしっかりと線引きがされており、リンクしていないところに時代を感じます。少なくとも今、例えば棚橋選手やオカダ選手が「RIZIN」に出て格闘家と戦うという必要性は全くありませんし、誰も望んでいません。

ここ数年を「プロレスと格闘技のきちんとした線引きができている時期」と定義すると、その前は格闘技ブームにより「プロレスが格闘技に食われた時期」。

プロレスと格闘技は全く別物ですが、当時その両輪を渡り歩いていた選手が居たのも事実です。プロレスラーが格闘技興行に出て負けたり、またPRIDEでも不可解な試合が組まれたりと、混沌としていてそれはまた今とは違った面白さがありました

古くからのプロレスファンだった人たちがPRIDE等に流れたのは、いつの間にかプロレスから失われてしまったこういう空間が格闘技に充満していたからです。


前置きが長くなりましたが、そんな混沌とした時代にプロレスのリングで一番面白かったのは、異分子との接触だったような気がします。

プロレスと格闘技は全く別物だけど(ここは強調しておきます)、どっちの要素も兼ね備えたヒリヒリ感といかがわしさ。キナ臭いドキュメント感。

その辺りを見事に表現していたのが、村上和成選手です。

私が村上選手の試合をはじめて見たのが、新日本プロレスでの小川・村上vs橋本・飯塚戦。後述しますが、この試合でプロレスの面白さを一番表現していたのが村上選手でした。

というわけで、あまり村上和成についてまとまっているページがなかったので、時系列で追っていきます。

格闘家時代(和術慧舟會・PRIDE1)

ざっとした経歴はウィキペディアを引用します(以下、引用元は全てウィキペディアより)。

1995年4月、和術慧舟會に入門。同年8月、真・格斗術トライアル・トーナメントで総合格闘家としてデビューした。10月には第2回ザ・トーナメント・オブ・Jに出場、1回戦で郷野聡寛にKO負け。

1996年の第3回トーナメント・オブ・Jでは2回戦で郷野に判定勝ちで雪辱。同年10月、アメリカで開催されたエクストリーム・ファイティング・チャンピオンシップに参戦、UWFや藤原組などに参戦していたバート・ベイルを下す。

1997年3月にはEFCヘビー級王者のモーリス・スミスと対戦し、敗れる。10月にはPRIDE.1にも出場、その第1試合でジョン・ディクソンと対戦、腕ひしぎ逆十字固めで勝利する。

1998年、空手・キックの猛者だった藤井毅、柔道選手(柔道二段)だった佐藤耕平(現プロレスラー・ZERO1所属)、スポーツインストラクターで格闘家の岡田孝(現・三州ツバ吉)らとともに千葉・行徳に順道会館を設立して館長となるも、アントニオ猪木率いるUFOの所属となって館長を辞任、プロレスラーとなる。

和術慧舟會の出身で、PRIDEの記念すべき1回目大会の、1試合目を務めています。もちろんPRIDE1は見ていますが、やはり目玉は高田延彦vsヒクソングレイシーだったので、正直記憶に無いです。

PRIDE1「村上一成vsジョン・ディクソン」

その後とは随分雰囲気が違いますね。

新日本プロレスの選手にリンチにあう

その後アントニオ猪木率いるUFOに所属。柔道銀メダリストの小川直也を切り札に「UFO」の興行が行われたりしていましたが、そんな中、橋本と小川の因縁が再燃。「3度目の戦い」が新日本プロレスの東京ドームで実現。

橋本真也VS小川直也 -1999.1.4.東京ドーム-

この日はホント衝撃的でしたね。
この一戦だけで、いくらでも語れますよね!

しかしここで村上選手は、乱闘の中で新日本プロレスの選手達にボコボコにされます。

1999年1月4日、東京ドームにおける小川直也対橋本真也戦のセコンドについていた際、小川の暴走に端を発した両軍セコンド同士の乱闘に巻き込まれ、いびきをかいて眠りだすなど一時昏睡状態に陥るほどのダメージを負う(決定的なダメージを負わせたのは飯塚高史のストンピング)。顔は凹凸がなくなるほど腫れ上がり、約1か月の入院という重傷であったが、これがきっかけでプロレスのリングで活躍する足がかりをつかむ。

この時の村上選手はホントに生死を彷徨うような状況だったようです。改めて映像をよく見ると、UFO側のジェラルドゴルドーにいきなり掌底を食らっているのが飯塚のようです。そこでゴルドーにはやり返せずに村上選手をリンチしたような感じでしょうか。

新日本プロレスに参戦し、暴れる

小川橋本の再戦ということになり、村上の因縁の相手である飯塚も含めたタッグマッチ。ここで村上選手を知った人も多いでしょう。

橋本真也、飯塚高史VS小川直也、村上一成 -2000.1.4.東京ドーム-


いや〜理屈抜きに、面白い!
こういうヒリヒリ感とドキドキ感。
気心知れた馴れ合いじゃなく、こういうリアルな感情の入り混じったプロレスが見たいですよね。

これは盛り上がるに決まってますよ。

そして、2000年03月11 日。
イベント「力道山メモリアル」にて橋本と小川の不穏なタッグが実現(橋本 小川 対 天龍 BBジョーンズ)。会場入りする橋本を襲った村上。


この辺りの行動で「平成のテロリスト」と呼ばれるように。
しかしこういう行動が似合います。

こうして迎えた橋本小川戦(負けたら即引退の日)。この日、村上vs飯塚のシングルマッチも組まれました。残念ながら映像が見つかりませんでしたが、リアルタイムで見ていてとても面白かったです。

格闘技大会への参戦

小川がPRIDE参戦か?佐竹と対戦か?みたいな流れの中、まず組まれたこの一戦。

2000年8月27日「PRIDE10」佐竹雅昭vs村上一成


佐竹vs小川という、空手柔道対決に繋げるための布石だろうと誰もが予想したでしょう。実際に次のPRIDE11で実現しています。その観点でいくと予定どおりなのかもしれませんが、きちんと爪痕を残します。

そしてその後、小川とは袂を分かれ、新日本プロレスに参戦。「魔界倶楽部」に加入したりしています。G1クライマックスにもエントリーされていました。

そして…
格闘技バブル絶頂の2003年末!
「INOKI BOM-BA-YE2003」に参戦。

何とK-1ルールで実現!
村上和成vsステファン・レコ


「新日本プロレスがK-1に挑戦」

2003年12月31日、「INOKI BOM-BA-YE 2003」にK-1ルールでステファン・”ブリッツ”・レコと対戦し、1R右ハイキックでKO負け。試合前のリング上で、花束の贈呈に来たK-1選手の武蔵に花束で殴りつける乱闘も繰り広げた。ただし試合解説を務めた高山善廣曰く、「あれが彼なりの礼儀、彼があれをやらなかったらやばい、どうかしている」とのこと。

高山のコメントがナイスです。
K-1ルールで戦うというのがあまりにも無謀で、しかも「プロレス代表」みたいな扱われ方に違和感を感じますが、プロレスのリングに上がるとプロレスラーらしく無い村上選手が一番、プロレスラーらしさを体現しています(いい意味で)。

その後、プロレスのリングでも活躍しますが大怪我により数年のブランクを挟みつつ復帰し、今も時々リングに上がっているようです。

とにかく面白いものが見たい

プロレスは事前に勝敗が決まっている。
格闘技はガチンコ。

この二元論だけでは語れないのが面白いところです。プロレスの全ての流れが決まっているわけではなく、わかりやすいところで言うと1999.1.4の件は、少なくともリング外のことは完璧なアクシデントです。また逆に、PRIDEをはじめとした格闘技興行においてもキナ臭い試合もありました(笑)。

新たに立ち上がった「RIZIN」は「競技化」を目指しているようですが、方向性として「競技」になってしまうとつまらないなぁというのが持論です。

初期UFCからはじまりヴァーリトゥード大会が日本でも行われ、PRIDEが立ち上がってブームになり、大晦日興行戦争になり…という流れの中で、だんだん「洗練された競技」を目指していくことでつまらなくなったんじゃないかな〜と思うわけです。

というわけで、年末にRIZINを見ながら、正直なところ「あんまり面白くないなぁ」と思いつついろいろYouTubeを見ていたところ、とにかくワクワクさせてくれた村上和成選手の映像を見つけたのでまとめてみました。

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