プロレスブームで「プ女子」と呼ばれる女性ファンが急増しているというそうです。すごい時代ですね。というわけであえて、今回はこの話題です。
今の新日本プロレスブームを見ると、試合や演出も含めた徹底的に作り込まれたクオリティの高いエンターテイメント感が魅力です。選手のイケメン化もあり、女子が虜になるみたいです。
では、新日本プロレスの歴史を紐解くとどうなのか?
「ストロングスタイル」といった言葉さえも懐かしい気がしますが、「行き当たりバッタリの作り込まれていないドキドキ感」が見るものをワクワクさせていたのも事実。
「結局、今も昔もプロレスでしょ?」と言われそうですが(いわゆるヤオガチ論においてのプロレスというネガティヴな意味合いで)、そんな論争を超越するような物凄いことが、かつては行われていたのです。
アントニオ猪木の異種格闘技戦
アントニオ猪木の歴史の中でいわゆるセメントマッチ(結末が決まっていなかったもの)は通説では2試合あると言われています(真偽はわかりません)。
一つはボクシングヘビー級世界チャンピオンのモハメッド・アリ戦。これはあまりにも有名な試合です。ただこれも諸説ありますが。
そしてもう一つがパキスタンの英雄であったアクラム・ペールワンとの試合。
いずれも当時の新日本プロレスの切り札だった「異種格闘技戦」というシリーズで行われたもの。今の「プロレス内プロレス」と違い、全く別ジャンルの格闘技のチャンピオンをプロレスのリングに上げて戦って最強を決めるという、冷静に考えたらよくわからないけどなんかすごいというものです。
これって言ってしまえば「異種格闘技戦という名のプロレス」なのですが、さまざまな事情により結果的にセメントマッチになってしまったもの、と言われています。
アクラム・ペールワン戦
本題に戻って、猪木vsペールワン戦。
この試合は1976年12月12日、パキスタンで行われました。パキスタンの英雄であるアクラム・ペールワンというレスラーが猪木アリ戦を見て挑戦状を出してきたということで、当時アリ戦により莫大な借金があった新日本陣営がこの話に乗り、新日本プロレス主催の興行ではなく数人のスタッフと共に現地に乗り込んだとのことです。
当日はパキスタン大統領も観戦し、国家情勢などもあってか7万人もの観客とライフルを持った兵士(‼︎)に囲まれていたというのは有名な話。日本とは全く異なる文化でしかもネットも何もない時代。もちろん客席はみんなパキスタン人でペールワンの勇姿を見に来ており、異様な空間であることは言うまでもありません。
そんなペールワン戦について、スポニチのコラムで後日猪木が語ったものをまとめた記事を引用します。
オレは通常のプロレスをするつもりでパキスタンに行った。ところが、現地に到着してみると、相手がプロレスをするつもりじゃないことが分かった。エキシビジョンマッチをするつもりで来日して結果的にあのような厳しい戦いをすることになったアリの立場にオレも置かれたわけだ。プロレスじゃないと言っても、ルールが整備された今の総合格闘技とは違う。ルールがないのだ。つまり、相手が何をしてくるのか全く分からない。しかし、パキスタンまで来て、もう後には引けなかった。オレは覚悟を決めてリングに上がることにした。1ラウンドのゴングが鳴り、ペールワンと組み合った。レスラーは組み合えば、だいたい相手の実力が分かる。オレはその時、思ったより怖い選手じゃないことを察知した。ただ、関節が異常に柔らかかった。腕を完全にきめたのにギブアップしないし、レフェリーも止めようとしない。2ラウンドで、オレは相手の戦意を喪失させるためにグラウンドでペールワンの目に指を入れた。プロレスの裏技だ。しかし、ペールワンは逆にオレの腕にかみついてきた。ここまで来たら行くところまで行くしかない。3ラウンドで、オレはペールワンの腕をアームロックできめると、そのままひねり上げた。何かがつぶれるような鈍い音がした。ペールワンは脱臼し、そこでようやく試合が終わった。
この試合自体はいろんなところで書かれていることではありますが、おそらく新事実であろう証言が。
猪木が先に目を突いた!ということ。
ペールワンが腕を思い切り噛んできたから目を突いた、というのが世間に知られた話だったはずですが、猪木が先にやっているという…エゲツないです(笑)
猪木も「プロレスをやりに行ったが相手はそうじゃなかった」という表現をしていますが、どこかで話がこじれたのかどうなのか、結局何も決まらぬまま試合をしたと。
ペールワン戦の映像があるので貼ります。実況と猪木本人の解説が入ってますが当然、後日被せたものです。
11分59秒あたりで猪木が「折ったぞ!」と喋っているのがはっきり聞こえますね。相手の名誉もあり絶対ギブアップしないので、そして何をしてくるかわからないこともあり、目を突いて戦意喪失させた上で腕を折って勝つ。
グラウンドの攻防一つとっても腕の骨の部分でペールワンの顔面を攻めていきます。普通のプロレスとは全く違う雰囲気なのは映像からも伝わります。アクラムの勝ちを信じていた7万人もの観衆とライフルを持った兵士。勝った瞬間に「生きて帰れない」と悟ったというのは、付き人として同行していた藤原組長の言葉です。
これにより一族の名誉は崩壊し、一族ともども、パキスタンのプロレスも地に堕ちていったとのこと。この数年後にペールワンは死亡してしまったようです。
まあ言ってみればこれも、猪木はじめ関係者の証言や記憶が元になっているので、すべての話が100%真実かと言われるとわかりませんが、そんなことどうでもよくなる「なんか凄いこと」が行われていたわかです。
…というわけでここまでが序章。
冒頭に書いた「面白い映像を発見した」というのは、実は先ほど紹介したアクラムペールワンのことではなく、あまり語られることのない「ペールワン戦の数年後に挑戦してきた、ペールワンの甥との試合」です。前置きが長くなったので続きは次回。
このあたりの年代については、この本に詳しいようです。
タイトルは聞いたことがあり好評なのも知っているのですが、プロレスから離れていたため読めてません。さらに深く考察するには必要なようです。
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