アクの強い音楽を「ディスコ」というレールに載せて大衆化させた細野晴臣のプロデューサー視点

やっとわかりました!

何がって…YMOです。
ちなみに個人的にはYMOという呼び方は好きではなく、Yellow Magic Orchestraという言葉が好きなのですが
書くのが大変なのでYMOとします。

今さらYMO?と言われそうなものですが…

もちろん表面的には理解していたつもりですし、SMEからアルバム10枚が紙ジャケ&Blue-specCDとして復刻された時は、ディスクユニオンの「増殖BOX」欲しさにまとめ買いしました(自慢)。

細野晴臣という人を、(世代的に後追いですが)その前後も含め把握していたつもりでしたが、それまでの細野氏のキャリアからコンピュータサウンドに移った過程は、「時代の先を読んでいた」というだけでは片付けられないものです。

とりあえず紹介。
暇つぶしの中で見つけた、細野晴臣の年表に本人及び関係者のコメントをまとめたサイト。この編集能力と労力はすごいです!

hosono archaeology

ここのサイト、まだ途中段階のようで年代によりまだできていない部分もありますが、これは応援したい!全時代網羅して頂きたい!!(大変そうですが)

そしてこのサイトの「1978年」のところを眺めていたところで、わかったのです!YMO結成の細野氏の心理が!

あ、先に言っておきますが、「そんなこと前から気づいてたよ!」というYMO好きの方もいらっしゃると思いますがご容赦ください。

ディスコという靴を履かせて匿名性で売る

まず流れに沿って見ていきます。引用部分は全て前述のサイトからですので念のため。

1978年2月19日に細野氏は、坂本龍一と高橋ユキヒロに「イエローマジックオーケストラ」の構想を打ち明けています。いわゆる「こたつでおにぎりを食べながら」と伝説になっている件ですね。
この時点で細野氏は「トロピカル三部作」を出した後。

細野晴臣の言葉
「はっきり固まっていたのはディスコね」
「共通の言語をもっと世界的な視野で見直そうと思ってディスコに目をつけた」
「僕のアクの強いエキゾチックな音は受け入れられなかった経緯から、ディスコ・バンドみたいにして、アクの強さを薄めていけば聴いてくれるかな、と。」
「僕の言うディスコというのはディスコティックのことではなくて、ひとつの音楽を伝えるための方便という意味」
「ディスコという靴をはかせれば逆に安心して知らずにスーッと聞く人が多いだろうということです」
「なかなか受け入れがたい音楽でも、ディスコというレールの上に乗っかれば、みんな聴きだすようになった」

当時の考えを振り返った言葉です。
これ、すごくないですか?

はっぴいえんどからソロ活動、またティンパンアレーとしてのミュージシャン活動というものがあり、そこからYMOへの繋がりがわからないという人は多いでしょう。
(なのではっぴいえんどファン=YMOファンとは限らないのです)

けどこの言葉を見ると、細野氏の「トロピカル」「エキゾチック」といったものを体現するためのキーワードとして「ディスコサウンド」というものがあることがわかります。

ここ、重要です。
これを踏まえて「ファイアークラッカー」を聴くとわかります。シーケンサーとの同期というのは、あくまで結果論なんですね。

匿名性を強めて世界に出る

もうひとつ。
ディスコというキーワードと合わせて重要なのがこの「匿名性」という言葉。再び細野発言。

「とりあえず何を作りたかったかというと、ぼくの顔の出てこない音楽なんですね」
「ソロと完全に違うのは、『匿名性』ということを初めて考えたんです」
「イエロー・マジック・オーケストラに関してはバンドというイメージは持ってなかったんです。まあ企画性の高いユニットというか……」
「グループ活動をしようとは思ってなかった。あくまでも、僕がプロデューサーの目で作ったバンドだし。オーケストラ と名付けたのはね、どんなメンバーが集まるかわからないわけ。だから、誰が入って来ても、また出て行ってもいいように。極端なことを言っちゃえば、たとえ この僕がいなくなっても続けられるように、柔軟性を持たせてあるわけですよ」

まさにプロデューサー視点です。
いわゆるロックミュージシャンとは全く違っていて、面白いです。

また、坂本龍一発言にもあります。

「記号化しちゃえば、どこに持っていっても売れる。そういう素地が、世界的にできつつあったのかも知れませんね」
「それまでのポップスというのは、歌っていうものが主流だったんだけど、ボニーMの作り方というのは、80年代、90年代のハウスなんかに近いというか、切り貼りでポンとリフレインだけ乗っけていくという。切り貼り細工、あるいは組み合わせの音楽っていうか」
「根っこが切れてるというか、音楽になってない、歌のコンテクストが切れちゃってる面白さ。」
「本来、歌というのは非常に保守的で、ある地域の伝統とか歴史とかに強く根ざしたものですよね。それが限りなく記号に近くなってることの面白さですね。」

歌というのは何処かの国の言葉なわけですから、確かにその地域に根付いたドメスティックなものです。だから支持されるのですが。

で、そこを排除していき記号化する。面白いですよね。

最後に高橋幸宏発言。

「日本の音楽は加工貿易音楽で、向こうから入ってきたものを加工して出すんだと、ミカ・バンド時代からトノヴァン(加藤和彦)なんかとよく話してたんです よ。ロックは西洋人の民族音楽だからっていう。そういうコンプレックスの意識がすごく強かったから、それを解消するのに、この手段はいいなと思って。フィジカルにやるのは昔から嫌いなドラマーだったし」

フィジカルにやるのが嫌いなドラマー!!これだけでも衝撃的ですよ。確かにドラミングを見るとわかります。。。

クラフトワークの影響は後から!?

その後、1978年4月に、芸術家の横尾忠則とインド旅行に出かけます。

「そこに入ってきたのが、えークラフトワークだの、そういったテクノ系の音楽ですね」
「コンピュータ・ミュージックの情報がポンと入ってきた」
「横尾さんとのインド体験なしにYMOは生まれなかったんです」
「古いエキゾチック・サウンドとドイツのシンセサイザーの音楽とが、グワーッと頭の中で一緒になってきてね。これは、やりたいと思って」

YMO結成の話の時に、クラフトワークを知らなかった!これって結構衝撃的ですよね。クラフトワークの影響でYMOを結成したのではなく、匿名性を強めたディスコサウンドでエキゾチック音楽をやるためにYMOを結成し、その後のサウンド作りでクラフトワークが大きなヒントになったというのが正しいようです。

インドから戻った細野氏は多忙を極めています。

・高橋ユキヒロ「サラヴァ!」レコーディング
・坂本龍一「千のナイフ」レコーディング
・桑名正博のレコーディング
・「パシフィック」収録の「コズミックサーフィン」レコーディング
・南佳孝のレコーディング
・横尾忠則との「コチンの月」レコーディング

そして、イエロー・マジック・オーケストラの企画書作成、アルファレコードにプレゼン。多忙だったアルファの村井氏を説得し、1978年6月に「ファイアークラッカー」のレコーディングを行います。

匿名性+ディスコ+エキゾチックサウンド=ファイアークラッカー

ファーストアルバムの「FIRECRACKER」はまさにピッタリですね。エキゾチックサウンドで有名な原曲を見事にアレンジ。

他、ファーストアルバムは名曲揃いですが、特に細野作曲の「SIMOON」なんて、元々の細野発言にある「受け入れられなかったエキゾチックサウンドをディスコに乗せる」というコンセプトにピッタリな曲です。

まだフュージョンの雰囲気も漂いますが、これが細野晴臣の名盤「泰安洋行」に収められていたら全然違う雰囲気だったはずです。

というわけで、細野ソロからYMOに脈絡もなく進んで行ったわけではないというのを、細野語録により理解できました。完璧なプロデューサー視点ですね。

それまでの音楽変遷、YMO、そしてその後の音楽についても、節操が無いように見えますが実は地続きになっている。奥が深いです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

post date*

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)